2009年04月28日

オリンパスPEN

思い起こせば、写真との付き合いはかれこれ50年になる。

子供の頃遊んだピンホールカメラを入れればもっとの長さだ。

10歳年上の長兄がカメラ愛好家で、今から考えるとおもちゃのような国産の小さいカメラでよく撮影していた。
そして押し入れを俄暗室にして現像・焼付けをしていた。
もちろん引き伸ばし機などないからフィルム大のモノクロ密着プリントである。

このようなレベルでも当時としてはまだ物珍しい時代であった。

写真自体も結構よく撮れており、懐かしい家族スナップが今でも何枚か残っている。

私がカメラに関心を持ったルーツはこんなところにあったかもしれない。

私自身が初めて手にしたカメラは忘れもしないオリンパスPENだ。

PEN

東京への中学卒業旅行に持参し、当時出来たばかりの東京タワーや、羽田空港、銀座のネオン街などを撮影している。

高校卒業旅行で訪れた九州にもPENはもちろん同行した。

オリンパスPENは、1959年(昭和34年)に世に出、ハーフサイズカメラの一大ブームを巻き起こし、以来23年間に総生産台数は1700万台を数えた。

私と同世代前後の人たちはかなりの数このカメラを手にして撮影をしているはずだ。

当時の記録をみると、最も安いカメラが2万6000円ほどしている。
まだ大卒初任給が1万5000円前後の時代、かなりの高級商品だ。

そうした時代にPENは6000円で売り出された。
これでも当時としてはまだかなりの高額ではあるが爆発的に売れ、カメラが一気に身近な道具になっていく。

まさに国民的カメラといってもおかしくないほどのカメラになる。

このカメラを産み出したのは、当時まだ研修を終えたばかりの若き設計技術者米谷美久氏である。

米谷氏は後に数々の往年のオリンパスカメラを輩出していく名設計技術者である。

PENとライカf3

上の写真にPENと一緒に写っているカメラはライカVfである。
戦前はライカ1台の値段で家が買えるといわれたカメラである。

当時の米谷氏はこのライカVfを愛用しコンテストに入選するほどのカメラ愛好家であったとのことだが、彼はPENを設計するにあたりライカのサブ機として使えるほどのカメラにするべくチャレンジする。

コストを下げるために部品点数を減らすなどの工夫をしつつも、カメラとしての品質をおとすことのないようレンズの性能には一切の妥協をしなかったという。

「誰の真似もせず、
世の中にないもの、
そして
自分がほしいものを作る」

このポリシーを念頭にPENは世に送り出された。

ライカf3

ところで、
ライカVfは私が最も愛するカメラの1つだが、後に米谷氏はVfを目標にというか、ライバルとして新たなカメラを作り出す。

このカメラとライカVfについては、またの機会に書く事にする。



posted by wa at 13:39| Comment(0) | TrackBack(0) | カメラと私